バドミントンの思い出 (リオンバドミントンクラブ)

本格的にバドを始めたのは昭和49年リオンに入社してからの遅いスタートであった。
遅い25歳からのスタートを言い分けにして、2部優勝以降は1部で活躍することなく現在に至ってしまった。
「クロスの斉藤」とか「変則の斉藤」と言われながら、スマッシュがないために結局シングルスプレーヤの道を歩むことになったのだろう?
当時は腰痛と付き合いながら、元気で明るい「スワンクラブ」の奥様方にお相手してもらいバドを楽しんでいました。感謝! m(__)m 



平成7年春季シングルス大会で、ななんと、壮年の部46歳で初優勝してしまった。(国分寺の市民大会)
勝てるはずのない、強敵な「須田さん」に勝ってしまったのだ。
しかし、体力の限界だったのかその2ヵ月後に腰痛(ヘルニア)で半年間の苦しみが始まってしまった。



腰痛という思いもよらぬことで体力の限界を感じ、それからは、腰をがばいながらのプレーとなる。

そして、3年後の府中市民大会で、平成10年府中市民大会シングルス2部で準優勝。(府中市民大会)
腰痛でたいした練習もしないのになぜか4試合勝ち抜いて決勝へ、大学生相手に善戦し惜しくも準優勝。
50歳の時であった。



スワンクラブ (国分寺のママさんチーム)

昭和51年7月(1975) スワンクラブは、先輩である平川さんの家庭婦人バド講習会終了後自主グループとして産声をあげる。
当時27歳で講習会のコーチ助手を務めていた私がスワン専任コーチとなりまいた。

そして、なぜか25年近くコーチを続けたのであります。なんでー・・・?

私が退任するとき発足当時から続けているメンバーは、なんと二人だけとなっていました。

左の写真は国分寺市家庭婦人連盟「20周年記念誌」の1カット。
最前列左から二人目と三人目が「化石」?
※ 練習日:毎週土曜日(3時から6時)
※ 場所:国分寺第一小学校体育館


平成10年1月8日「新年会」

大雪でJR中央線が止まって大混乱のなか、国分寺駅南口前で交番のお巡りさんに撮ってもらった記念の写真。

男性は3人だけで女性に遊ばれて?楽しんでいました。

長い間ありがとうございました。test